誰か知る松柏後凋の心

たれかしる しょうはくこうちょうのこころ

わが心のバイブル―『取調べを受ける心がまえ』④~作り出される矛盾に苦しむ被告人~

前回のブログの最後に,

被疑者が真実を話すのであれば,その話と矛盾する証拠など出てくるわけがない

と考えることは間違いだと書きました。

証拠には,物証と人証があります。ここでは大まかに,前者が文書,後者が証言と考えます。

文書は客観的な証拠になりうるものですが,その文書が何のために作成され,実際にどのような内容を伝えるものであったのか,という点について,必ずしも明確でない場合があります。とくに,当事者どうしのみでやりとりされる文書は,その当事者でなければ分からないこともあります。つまり,その文書の目的や内容について,見る人によって解釈が異なる可能性がある,ということが起こりえます。

証言は,その内容が過去の事実に関するものであり,記憶違いや,ひどいときには意図的に,実際に経験した事実と違うことが語られる可能性があります。

つまり証拠が示す事実には『幅』がある,ということです。いくら被疑者が真実を話しているつもりでも,他の証拠が示す事実の幅とぴったり一致するとは限りません。このような不一致は,矛盾と捉えられやすいものです。

基本的に,裁判官は,被告人の証言を「言い逃れのためのウソ」と考える傾向にあります。つまり,いったん被告人になってしまえば,なにを言おうが信用されません

一方,検察が連れてきた証人が,被告人の語る「真実」と矛盾する「事実」を語ったとしましょう(証人に悪意がないとしても)。

さて,裁判官は,どちらの証言を信用するでしょうか。

さらに,なにかの書証について,その証人が別の解釈を語ったら?

答えは明らかです。裁判官は,

被告人の証言には矛盾があり,信用できない

と考えるでしょう。よって,被疑者の段階で,いくら真実を語ろうとも,捜査機関がそれと矛盾する証拠を出すことは十分に可能ですし,彼らが戦略的にそのような行動を取ることも想像に易いことです。

なお,ここでいう矛盾というのは,科学的な矛盾ではなく,あくまで裁判所の事実認定のレベルにおける矛盾です。裁判所の事実認定とは,

ある事実の存否が問題になったとき,証拠によりその事実の存否を決すること*1

です。

本来,科学において,ある「仮説」が「真実である」というためには

  • それ以外の説明はできないことが明らかにされる

必要があります。つまり,ある現象がなぜおこるのか?を説明するのに,「Aという説明もできるが,Bの説明も成り立つ」という状況において,科学の世界では,AもBもその時点ではまだ真実とは言えません

裁判所の事実認定は,その根拠となる証拠に『幅』があるために,これほどまで厳密なものとなりえないのは明らかですが,当然に意識されるべきものと私は考えます。しかし,現実には,検察の示すストーリー(=Aの説明)を聞き,「被告人が犯人であるとすればAで合理的に説明できる」とだけ考えて,弁護側の主張するBの説明を却下してしまう裁判官もいます。本来は,A以外の説明があり得る時点で,推定無罪の原則が働くべきですが,法律の実務は残念ながらそことはかけ離れたところにあるようです。(次回につづく)

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*1:石井一正:刑事事実認定入門第2版,判例タイムズ社,2005